2002/05/23
カシミール問題の話3
続きです。
インド・パキスタンの両国間の戦争はパキスタン軍の無条件降伏により終了し、東パキスタンは独立してバングラデッシュとなりました。そして1972年にシムラ−協定が調印され、停戦ラインに代わる実行管理ラインを制定し、両軍がカシミールから撤退しました(なお、パキスタンがバングラデッシュを承認したのは1974年、インドが核実験に成功してから)。戦争の結果を見るとおり軍事的にはインドが圧倒していた両国間ですが、アフガニスタンがソ連に勝利した1980年代に、アルカイーダの戦士がカシミールに入ったことにより事態は急変、一気に緊迫します。そのため、1982年の不可侵条約締結にも失敗し、1984年にはインド軍がカシミール北部の氷河地帯に常駐するようになります。1987年、ジャンムー・カシミールにおいて圧勝と予測されていたイスラム系政権がたった4議席しか確保できないという事件が起こります。この事件はインドによる不正操作があったのではないかという騒ぎになり、緊張感はさらに高まりました。1988年に両国間での核施設不攻撃協定が調印される(これは核兵器施設ではない。この頃にはまだパキスタンは核兵器の開発に成功していない)と、翌年にパキスタンは核じゃなければいいだろうとばかりに地対地ミサイルの開発を行い、1989年からカシミール地方は事実上の内戦状態に陥りました。とくにパキスタンからジャンムー・カシミールへの侵入が始まるようになり、さらに1992年にパキスタン側から恫喝的な宣言が行われました。それは、パキスタンが核兵器製造能力を保有し、組みたて待ちにしてある核爆弾を保有しているという宣言でした。それを受けたかのように、この年の年末にインド全土でイスラム教徒虐殺事件が勃発、さらにヒンドゥ系の住民をカシミールへ大量移住させるという方針を展開します。こうしてカシミールの緊張はまた高まりましたが、1996年には停戦協定がなされました。
続きます


 

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