2002/05/22
カシミール問題の話2
続きます。
ハリ=シング藩王がインドへの帰属を決定した理由は、本人がヒンドゥ教徒だったこともありますが、パシュトン部族がカシミールに侵入し、その背後にパキスタンの影があったからなのですが、住民の大半はイスラム教徒だったため、この決定に反対。パキスタンとの戦争になりました。1949年になって国連は二国間の停戦協定を確立し、カシミールがどちらの国に帰属するかは住民投票によって決定するよう、決められました。仮の国境線は戦闘停止時の紛争ラインとされました。そのため、カシミールはパキスタン側のアザド・カシミールと、インド側のジャンムー・カシミールに分かれます。インドは国連からの勧告を無視し、住民投票を拒否しました。そして、1951年にインド側のジャンムー・カシミールだけで選挙が行われ、インドへの帰属を決定しました。しかしこれは住民投票によるものではないため、無効とされました。それからしばらくは何事もなかったのですが、1963年のイギリスやアメリカなどの仲介工作が失敗した頃から、またきな臭くなります。そして1965年に国境警備隊同士の衝突が発生しました。状況的に不利だったインド側が撤退したため、パキスタンが勝利宣言したことからインドとパキスタンが全面戦争を引き起こします。この戦争もまた国連による調停で一時的に終了、1966年に代表してソ連のコスイギン首相がタシュケント宣言を行い、カシミールの停戦ラインの厳守が約束されましたが、インドとの戦争終了直後だった中国がこの宣言をアメリカとソ連による陰謀であると非難、事実上無効化されてしまいました。1970年になってアザド・カシミールの東パキスタンで自治独立を要求する政党が政権を取ったことから1971年にパキスタンが軍隊をもって東パキスタンを攻撃したため、インド側に難民が流入、事態を重く見たインドは東パキスタンを守るという名目で軍事介入、パキスタン軍を撃退します。
続きます。


 

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