2002/03/02
ひな祭りの起源の話2
続きです。
上巳の節句の祝いは日本においては古来からあった水辺での「みそぎ」「はらい」の儀式と共に陰陽道と結びつき、陰陽師を呼んで、天地の神に祈りを捧げ、季節の食物を供え、わらや神で作った人形に災いや凶事を託して川や海に流すという風習となりました(この風習は今でも山陰地方において「ひな流し」という風習として残っている)。紫式部の源氏物語には「春三月、須磨の海辺にでて、払いを受けたひと形を小舟にのせて海に流す」という記述があります。この怪しげな風習と現在のひな祭りが結びつかないのは当たり前で、実は当時あった二つの風習がぐちゃぐちゃに混ざった上で変化したのがひな祭りだからなのです。当時の宮廷では、紙で作った着せ替え人形と、身の回りの道具をまねて作った玩具を用いたままごとが婦女子の間で流行しており、これを「ひいな遊び」と言いました。清少納言の枕草子では「すぎにしかた恋しきもの、枯れたる葵、ひいな遊びの調度」と書かれています。この二つの行事が混じったのがいつ頃かは私も調べ上げることができなかったのですが、少なくとも寛永六年(1629年)には京都の御所で、朝廷によるひな祭りが催されています。また、大奥でもひな祭りをやるようになり、幕府によって正式に五節供の一つと認定されています。江戸時代中期に入ると、武士や商人の間で女子誕生を祝うという初節句の風習が生まれたことにより、ひな祭りは一気に広まります。ただし、この頃の雛飾りはお内裏様を毛氈の上に飾る程度の簡易なもので、それから徐々に家来や道具などが多数付くようになっていきました。このひな祭りの風習は平民にも浸透し、土びなと呼ばれるものが作られるようになりました。江戸時代後期には、あまりにひな飾りが豪華になりすぎたため、幕府によってひな人形の華美を禁じるお触れが出るほどでした。なお、明治時代には新政府によって節句行事が廃止されましたので、ひな祭りは一時的に衰退しました。
起源の話はこれで終わり、明日は雛飾りについて書きます。


 

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