2001/04/17
動物愛護の話3
昨日の続きです。食う食わない、というのはスレッショルドのパワーゲームに過ぎません。日本では犬に関しては食わないというスレッショルドを、鯨に関しては食うというスレッショルドを引いているだけです。
犬を食うことに特に何にも感じないという人は稀でしょうが、しかし、世の中にはそういう人もいるかも知れません。じゃあ爆弾を落としますか。そういう人に聞きます。あなたは人間を食べることにどう感じますか?人間もまた絶滅しそうではありませんし、むしろ増えすぎているくらいです。味は私は食べたことがないので評価できませんが、栄養価は結構高いと思いますよ。嫌ですか?でも頭がいいからとか、同族だからというのは感情論に過ぎません。なぜ嫌なのかをきちんと説明してください。いや、私は人間を食える、という人に聞きましょう。あなたは恋人を食べられますか?家族を食べられますか?自分の子供を食べられますか?これらの質問に少しでも拒否反応を示した人には牛を食うのに鯨を食うなというな、とか、植物だって生命なのにそれを食っておいて鯨を食うなというな、なんて意見を述べる資格も正当性もまったくありません。その言葉そっくりあなたにお返ししましょう。鯨を食うのに人間を食うなというな!と。冗長的になりますが、これらは純粋にレベルの違いに過ぎず、理屈としてはまったく変わらないのです。自分達が鯨を食うという少数派にいるにも関わらず、牛を食うという多数派に対して牛を食うなと述べることはできません。ありがちな文化論もまた国際というパワーゲームの前では無力です。それが嫌なら国際から孤立して鎖国でもするかよそから文句を言われないくらいのパワーを持つしかありませんが、どちらも実現不可能なのは言うまでもありません。パワーゲームの前では少数派の行動は単なるエゴイズムに過ぎないのです。
さて、これが鯨食肯定派は人食肯定派にならざるを得ないといういわゆる簡単な踏み絵の例なんですが、いかがでしたか。


 

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