2001/04/16
動物愛護の話2
昨日の続きです。
昨日の説明を読んでもなおこのことがおかしいと感じている人は、まだまだいるでしょう。では、常識、という、パワーゲームによって成り立つものを考えてみましょう。たとえば日本で犬を食うのは常識かと言われたら、答えは非常識でしょう。でも中国では犬を食うのは常識です。それは中国という世界におけるパワーゲームで犬を食う肯定派が多数を占めているからに過ぎません。しかし、この世界を日本に置き換えると犬を食う否定派が多数を占めているからという理由で非常識になります。世界をもっと大きく、国際社会に置き換えればやはり犬を食うのは非常識となり、結果として犬を食うことは世界の非常識となりますが、中国という国家は、国際社会においてかなりのパワーを持っており、パワーゲームの勝者たりえますから犬を食うことで批判されることはありません。そもそもこの手の話はレベルの違いに過ぎません。菜食主義者にとっては鳥を食うのですら非常識ですが、菜食主義者が多数ではない国際社会ではそれは常識とみなされます。インドでは牛や豚を食うのは非常識ですが国際社会ではそれは常識とみなされます。イスラムでは豚を食うのは非常識ですが国際社会ではそれは常識とみなされます。逆に日本では鯨を食うのは常識ですが国際社会ではそれは非常識とみなされるというだけのことです。そこにあるのは純粋にスレッショルド(閾値)のレベルの差に過ぎません。牛を食う連中に鯨を食うことを非難される筋合いはない、鯨は頭がいいのだからというのは感情論に過ぎない、鯨は絶滅しそうではなく、種によっては増えすぎているものもある、という人に聞きますが、じゃあ犬を食うことに対してはどう感じるのか。犬を食うのはかわいそうと拒否することはできませんよ。犬が頭がいいのだからとかかわいいのだからというのは感情論に過ぎないし、犬は絶滅しそうではありません。犬を食うことに拒絶反応を示さない、といいますか?
明日に続きます。


 

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