2002/01/19
納豆の話4
続きです。
もう一方の説は飼葉桶から発生したという「馬糧納豆伝説」が挙げられます。この説として有名なのが「聖徳太子の納豆伝説」と「八幡太郎の納豆伝説」です。先に聖徳太子のほうから片付けましょう。この伝説は現在の滋賀県八日市市に伝わる伝説です。八日市市というのは聖徳太子が自ら市を開いたといわれている場所です。七世紀の初め頃、八日市市の湖東町に聖徳太子が訪れ、休憩した際に馬に資料の煮豆を与え、余った煮豆を藁包に詰めて木の枝に吊るして去り、これを村人が開けたところ「糸引納豆」が出来ていた、というものです。もちろんこれを証明するような資料は何一つ残されておらず、本当か嘘か、まったくわかりません。もう一方の八幡太郎のほうに行きましょう。平安時代に衣川境界を巡って国府軍と安倍一族が激突し、国府群が全滅する事件がありました。これを前九年の役といいますが、蝦夷追討の命を受けた源頼義と源義家が安倍頼義を中心とした安倍勢と戦うことになります。源側は敵方の安倍貞任からの攻撃によって壊滅し、大寒波との挟み撃ちで兵糧もろくに集まらない状態に陥りますが、出羽の清原武則の救援により一気に形勢逆転となり、火計なども駆使して貞任軍を撃破、ついに勝利します(このときに敗北した側の安倍宗任は出家して九州の大宰府に流され、ここで「糸引納豆」の作り方を伝えたという伝説もある)この戦で戦功の高かった清原武則の死後、一族の間で内乱が勃発。これは源義家の圧力や一方が死んだことによって収まるものの、またもや内乱が勃発。源義家はそのうちの一方につきますが、またもや寒波来襲(後三年の役)。このときに生まれたのが納豆伝説で、源義家軍が枯葉で馬糧用に大豆を煮ていたら夜襲を受け、やむなく煮豆を俵に詰めて馬にくくって脱出し、翌日俵を開いたら「糸引納豆」が出来ていた、というもの。さて、「糸引納豆」自体は「新猿楽集」の中に登場しており、七世紀には既に存在していたことは明らかです。よってこれは「伝説」に過ぎないことがわかります。
続きます。


 

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