2002/01/07
中東問題の話1
今回から現在の中東問題の根源に迫ってみたいと思います。
既にあちこちで書かれているため、概略(イギリスの矛盾)はご存じではないかと思いますが、もう少し突っ込んでみましょう。中東問題はイギリスの二枚舌政策のせい、といわれていますが、実際には三枚舌政策です。第一次世界大戦当時、中東はオスマン・トルコ帝国の支配下にあり、独立運動を行っていました。このオスマン・トルコ帝国が勢力を弱めたことをきっかけに独立運動が盛んになりました。当時ドイツ・オーストリア連合と対立していたイギリスはドイツ・オーストリア連合と同盟していたオスマン・トルコ帝国の勢力をさらに弱めるため、エジプト駐在高等弁務官マクマホンを使って、ヒジャーズ王国国王のフセインに対してアラブ人居住区の独占を含めたアラブの国を建国させることを約束し、オスマン・トルコ帝国に対するアラブの反乱を支援しました。これを「フサイン・マクマホン協定」と言います。そしてこれとは別に、ユダヤ人資本家の金融資本協力を得るため、ユダヤ教における約束された土地であるカナン(パレスチナ)に帰って建国しようとする運動(シオニズム運動)を外務大臣のバルフォアが支援することを約束しました。これを「バルフォア宣言」と言います。そして、その裏ではさらにマーク=サイクス卿がフランスのシャルル=フランソワ=ジョルジュ=ピコとオスマン・トルコ帝国の領土をロシアを含めた三国で分割する協定を結んでいました。これを「サイクス・ピコ協定」と言います。ちなみにこの時の分割案はイギリスがイラクとヨルダン、フランスがシリアを、ロシアがグルジアとアルメニアを得、さらにパレスチナは連合の共同統治というものでした。結局、この試みは戦後にアラブ民族の強烈な反対運動を招き、イギリスは統治困難とみなして国連に泣きつきます。国連は最終的にパレスチナ地方をアラブとユダヤの二国に分割し、エルサレムは国際管理下に置くというパレスチナ分割案(UNSCOP案)をアラブ諸国の猛反対を押し切って採択しました。こうしてイスラエルが建国されます。
こうして中東は火種となってしまったのです。


 

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