2001/04/05
皮肉の話
皮肉屋というのはどこにでもいます。私もかつてはそれを自認していたこともあります。皮肉というのは一歩間違えるとただの嫌味になります。つまり敵を作りやすいということです。しかしきれいな花には刺があるではありませんが、皮肉には大きな魅力もあります。皮肉というのは非常に魅力的なアピール方法で集客力もあるからです。ニュースステーションがあれほど長く続いているのも司会者の皮肉が受けたからでしょう。しかし、上に書いたとおり皮肉は一歩間違えると嫌味となります。この境界線というのを考えてみる必要があるでしょう。
もちろん、時と場所と場合が重要なのは言うまでもないでしょう。葬式の場で故人に対して皮肉を言うのは誰がどう考えたって嫌みにしか聞こえません。しかし、それ以上に重要なことがあります。それは何を対象にするかです。何を対象にした発言かによって同じ行動であっても皮肉が嫌みになる可能性は変わります。例えば企業や公人に対してはどんなに嫌みなことを言ったとしてもそれは皮肉の範疇に納まる可能性が高いのですが、個人に対して同じことをすると嫌みと取られる可能性が極端に上がります。これには理由があります。皮肉が受ける理由はそれに共感することができるからです。この共感というのは僻みでもあります。ある企業に対して皮肉を言えばその意見に共感する人の数は多くなります。その企業が強力であればあるほど羨ましがったり僻んだりする人の数が増えますから、共感する人も増えます。日本人は直接的な表現よりも間接的な表現を好みますから皮肉というのは間接的に相手を攻撃し、しかも自分の羨みや僻みを吸収してくれる手段となります。そのため受けるのです。ところが皮肉を言う相手を個人にしてしまうと、まずその個人を知らなければ共感できませんし、また知っていれば逆に相手に対して共感する人も出てきます。それは相手が個人という弱い立場のため、母性本能というか、攻撃されているほうに肩入れしやすいのが日本人だからです。これは無用に敵を作るためできれば避けたほうがいいです。
そこまでわかっていてもやっぱり辞められないですね。脅えながら皮肉をいう快感。


 

Topへ