2000/11/30
芸術の話2
昨日は私に芸術的なセンスが欠落している、非常に機械的な人間であるということを描きました。この原因はいくつか考えられるのですが、やはり幼少の頃に溯る必要があるでしょう。
もっとも大きな理由はやはり幼少のころに自分の使っていた言葉が一切通じない世界に放り込まれたということだと思います。以前にも書いたとおり、私は四才でアメリカから日本に帰ってきたため、まったく日本語ができない少年でした。そもそも文化からしてパンジャム文化からいきなり味噌汁ご飯文化になったのです。自分の話す言葉(英語)は他人にはまったく通用しませんし、他人は私の知らない言葉(日本語)で話すのです。このときに私はおそらくそれまでの自分の過去をすべて捨てたと思われます(ゆえに私はアメリカ時代の記憶というのをまったく持っていません。後天的に植えられたものならいくらでも思いつくのですが)。信じられるものがまったくない状態で私がすがったのは論理でした。論理だけはどこにあっても不偏だったからです(もっとも後になって日本は実はまったく論理の通用しない国だということに気づかされるのですが)。そしてそれは私を理屈の人に仕立て上げました。その代償として私は芸術的感性を生け贄にささげたのです。私は自分がとったその行動が間違っているとは思っていません。芸術的感性は生きていく上で必ずしも必要ではないものだからです。とはいえ、ある程度の芸術性を持つ必要はありました。何故なら、芸術性を持たない人というのは余裕のない人、つまらない人という思想が一般的だからです。私は唯一、論理性のある芸術を見つけました。落語です。落語というのは非常に高度な論理のもとに展開されるパターン芸術です。必ず前振りがあり、中身があり、最後に落ちがあります。私はおかげで落語という芸術だけは理解できるのです。
それでも、私に絵心だの音楽的センスだのを期待する人がいます。私に描けるのはせいぜいこのWebPageのペンギンバナーくらいで、自分の作るフリーソフトのアイコンですらあおい氏に頼んでいるくらいなんですから。


 

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