2000/09/09
視点の話
以前に書いた尺度の話と重なる部分があるかも知れませんが御了承ください。ありとあらゆる事象には表と裏があります。ある人にとっては励みになる言葉がある人にとっては落ち込ませることになります。人なんざ自分の視点でしか物事を見られないんですよ。自分が発した言葉、文章が相手にどう思われるか、相手を傷つけることになるかならないかすらわからないんです。
たとえ「今日はいい天気ですね」という言葉であっても相手は雨を望んでいるかもしれない。誰も傷つけない言葉なんてほとんどないんです。結局はそこにあるのは多数決の原理です。多数の人が快晴を望んでいるのであれば「今日はいい天気ですね」という言葉は人を傷つけない言葉と認知されます。その言葉で傷つく少数の人は無視されます。昨日書いたパンダの赤ちゃんの話もそうです。多数の人がほのぼのなら傷つく少数の人は無視されるのです。例えばある国は自分の国の報道に情報操作は無いか、などを授業として教えているそうです。それをマスコミが考え、全面的に協力しているそうです。このニュースを聞いて自分で自分の首を絞めるような行為に対して偉いと思う人が多数でしょう。でも、考えてみればこれも一つの情報操作です。自分で自分をチェックできる人なんていやしません。第三機関がチェックして、営業停止を含めた行政処分を課しているというのならわかりますけど、結局自分達の報道がいかに平等で情報操作をしていないか(そして他の国の報道がいかに嘘か)という情報操作をしているわけです。全ての情報を提示できることはできない以上、情報を発信すればそこには取捨選択があります。そして人は多数にとって安全なものを全員に安全と思い込むのです。そして少数を排除するのです。ありとあらゆる言葉は誰かを傷つける可能性があるのです。その可能性をまったく考慮しないことほど恐ろしいことはありません。
私の文を読んで傷つく人もいるでしょう。怨む人もいるでしょう。私はその傷や怨みを背負うことを覚悟しないで文章を書くことなどできません。という情報操作をしときます。


 

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