2002/03/11
子どもと子供の話
その昔、子供という表現が差別表現にあたるというわけのわからないことを言われたことがあります。
これは冗談ではなく、本当です。子供は差別用語であり、子どもと表記しなければならないのです。実はこの馬鹿馬鹿しい規制は歴史が古く、今からちょうど50年前に発生しました。この年に「日本子どもを守る会」という会が出来たのですが、そのときの副会長の羽仁説子氏が児童憲章前文を元に「子どもを子供と表現するのは家長制度によって子どもが親の所有物とされているから」というようなことを述べたことに由来します。しかし実はこの子供という漢字はどこから沸いて出たのかよくわかっていません。どうも、元々は子共と書いていたのが、どこかで子供と変わったらしく、少なくとも昭和の初期には既に子供という表現が使われていました。しかし、子供という漢字表現が、親の所有物とされたことに由来するという証拠はどこにもありません。もちろん、由来していないという証拠もありませんから、疑わしきは罰せよの感覚で表現を変えようとするということ自体には反対しません。しかし「子供」と「子ども」を見比べると、後者のほうがむしろ子供を馬鹿にしたような幼稚な表現のように見えます。これには証拠も根拠もあります。何せ紀貫之の土佐日記に遡りますから。この「男もすなる、日記といふものを、女もしてみむとて、するなり」という書き出しで始まる文学作品は、当時は女性だけが使う「幼稚な」漢字かな混じりという文体を用いて日記を書いたということが明らかであり、これは後の日本の歴史において、かなというものを「女子供の使う文字」と決定付けることにもなりました。もし、本当に子供という言葉を「親の所有物の象徴」と捉えるなら、本来の表現であったはずの「子共」に直させればいいはずです。敢えて「子ども」という言葉に置き換えた意味はなんでしょうか。
私はむしろ羽仁説子氏が「日本子どもを守る会」に注目を集めるために、後付けで理由をつけたのではないかと思います。何故なら、「日本子どもを守る会」が「子ども」なのは、小学校低学年でも読める漢字だけを使うという思想によってなされていると考えられるからです。


 

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