2001/05/24
上杉鷹山の話3
昨日の続きです。
上杉鷹山の改革案は世界的に見ても先進的なものでした。その骨子を要約すると、藩政に関して一切の隠し事をしないし、自分は嘘をつかないので同じことを全藩士に求めるというものでした。さらに最終的な目標は民富にあると述べています。このときの上杉鷹山の宣言は方法論としても素晴らしいのですが、特に最終目標と述べた民富という考え方が凄いのです。実は全文を通して読むとその根底にある思想は「主権在民」に行き着きます。藩士も藩主もみな藩民のために働く、中心となるのは藩民、という思想なのです。それは上杉鷹山が引退時に子に贈った言葉にも表れています。「国家人民の立てたる君にして、君のために立てたる国家人民はこれなく候」という言葉ですが、本来、支配者である藩は人民のために立てたものであり、藩のために人民がいるのではない、という意味になります。当たり前じゃないかと思うかも知れませんが、上杉鷹山が改革案を述べたのは1769年。この言葉を贈って引退したのは1785年です。主権在民という考えはアメリカ独立宣言によって初めて誕生したとされていますが、独立宣言は1776年のことです。フランスで主権在民を謳った憲法が作られたのは1789年。つまり言葉こそ違いますが、主権在民という概念を世界で初めて唱え、実現したのがこの上杉鷹山なのです。さて、上杉鷹山がこのような宣言をしても藩士、特に位の高いものほどこの改革に対して反発し、妨害を行いました。上杉鷹山は時に先主である上杉重定に登場してもらいながら果敢に改革を行いました。虚礼の廃止を行い、藩士の登城は本当に用があり必要なときだけとし、それ以外は別の仕事をしても構わないという在宅勤務制度のようなものも設けています。さらに、既にあった地場産業の改革にも乗り出しました。当時の米沢藩には織物の原料となる麻糸や口紅等の染料の原料となる紅花、和紙の原料となる楮(こうぞ)、漆などの地場産業がありました。
明日に続きます。


 

Topへ